【ジョーカー2:フォリー・ア・ドゥ】 ― 嘘を語る続編、3作目が出ないと理解できないかも ―
※本ポストには作品のネタバレが含まれています。ネタバレを望まれない方はご注意ください。
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前作の圧倒的な評価とともに、2024年最注目作のひとつとして期待されていた『ジョーカー2:フォリー・ア・ドゥ』(以下、『ジョーカー2』)がついに公開されましたが、予想を大きく裏切る内容と構成により、評価は大幅に下落し、さまざまな議論を呼んでいます。
「映画館で観るにはお金がもったいないから、配信されるまで待った方が賢明」なんて言われてしまうほどなら、なかなかの問題作だと感じました。
映画についてノイズが多かったのもありましたし、前作を個人的にとても感銘深く観ていたこともあって、『ジョーカー2』は劇場で直接観てみたんですが、なぜ観客から非難を受けているのか、映画の内容以外にも“変な部分”があるのかについて納得できる部分が多かったです。個人的な感想としては、このままでは続編の『ジョーカー3』が制作されない限り、トッド・フィリップス監督は投資家やファンから相当責められるんじゃないかという気さえしました。
まず映画以外の部分からですが、公開前に最も重要なマーケティングの一環であるPV(プロモーション映像)からして、すでに“嘘”が含まれています。
主人公アーサー・フレック(ジョーカー)とリ・クインゼル(ハーレイ・クイン)が裁判所の階段で一緒に踊るシーンがまるごとカットされたのか、意図的に入れなかったのか、それともディレクターズカット版では登場するのか、今でも判断がつかないんですが、本編では一切出てきません。PV映像だけ見ると、アーサー・フレックがジョーカーとして行った行為について、何らかのトリックで無罪を勝ち取るとか、彼の妄想として登場する演出なのかなと思ったんですが、そもそもそのシーン自体が存在しません。
また、トッド・フィリップス監督は今回の『ジョーカー2』に、世界的な歌手であるレディー・ガガが主要キャストとして出演し、撮影にはダンスや歌のシーンが多く含まれていたにもかかわらず、「『ジョーカー2』はミュージカル映画ではない」と明言していました。
ですが、実際の内容を見ると、まるでボリウッド映画顔負けの勢いで歌って踊って、キャラクターの心理描写まで歌詞で表現されるんです。劇中では、アーサーが現実でも妄想の中でも歌うんですが(例えば、精神病院であり刑務所でもある場所の面会室で歌うなど)、それが本当に歌っているのか、妄想による演出なのかは曖昧に描かれています。でも、演出そのものはもう完全にミュージカル映画で、『レ・ミゼラブル』や『グレイテスト・ショーマン』と同じような構成に見えました。それなのに、ミュージカル映画じゃないって言うんでしょうか?
とはいえ、この時点で映画の内面を見ていくと、もちろん深読みかもしれませんが、これらすべてが映画のストーリーに重ねた演出の一部だったのではないかと思えてきました。
なぜなら、本作の物語や演出全体に“嘘”というキーワードが強く結びついているからです。
まず、リ・クインゼルがアーサーに近づいたときに語った自分の過去などは“嘘”でした。アーサーの妄想を映し出すようなリ・クインゼルとのデュエットショーもすべて妄想であり、つまり“嘘”に過ぎないんです。そして、小人の同僚で唯一の友人であるゲイリーの証言を聞いた後、法廷で「ジョーカーなんて存在しない」とアーサー自身が告白します。
つまり、ジョーカーという存在は二重人格でも実在する人格でもなく、“作られた嘘の人格”でしかなかったということになります。
何より、アーサーは前作からこの“嘘”というキーワードがとても重要な要素として描かれてきました。「ハッピーだよ」とガスライティングを繰り返していたアーサーの母親自体が、嘘に満ちた環境を作り出していましたし、アーサーが隣人の女性に恋心を抱いていたことや、2人が親密な関係だったと思われた描写も、すべて“嘘”の妄想でした。 ただし、前作ではこれらが“嘘”だったことを明確に示し、アーサーがジョーカーとして覚醒し、起こした事件はすべて“真実”として、演出トリックなど一切なく純粋に描かれていました。
ただ、今作では「これが本当に嘘なのか、それとも真実なのか」が、本当に曖昧に描かれています。まず、リ・クインゼルの過去が明かされるのも、アーサーの国選弁護人の口から語られるだけで、それ以外にリ・クインゼルの過去を裏付ける証拠のような描写は一切登場しません。むしろ、疑わしく感じるほどです。 例えば、リ・クインゼルが裁判所以外の場所で着ている服はずっとボロボロで、アーサーの最後の公判でメイクをしていた場所も、お金持ちが選びそうなインテリアとは程遠く、伏線もないスタジオのメイクルームのような雰囲気でした。そして、彼女の住まいやプライベート空間も映画では全く描かれません。
それでも彼女はアーサーと一緒に脱獄ショーをしてもアーサーのように懲罰房に入れられるわけでもなく、まるで天竜人のように社会を自由に動き回っている姿が描かれ、国選弁護人の言葉が“真実”のように感じられる演出になっています。もちろん、それがリ・クインゼルの医師の父親が裏で手を回したのか、リ・クインゼル自身の能力でそうなったのかは、まったく分かりませんけどね。
そしてリ・クインゼルは、懲罰房に閉じ込められたアーサーを訪ねてきて、驚くべき誘惑の技(?)を見せつけた後に関係を持つシーンがあります。その後、リ・クインゼルはアーサーに妊娠したことを告げますが、これもまた映画内では何の証拠も示されません。それでもアーサーは、ただリ・クインゼルの言葉を信じて、その子のために改心して生きようと決意を新たにし、自分が完全なジョーカーとして覚醒したあの階段の上で歌を歌うのですが、リ・クインゼルはむしろ(大多数の観客が映画を見ながら切実に願った通り)「歌うのはやめて」と冷たく去ってしまいます。彼女が去った理由は、アーサーがこれまでの「嘘」の存在であるジョーカーの道を選ばず、「真実」の道であるアーサー・フレックを選んだからなのです。
こうして見ると、リ・クインゼルという存在はまさに「嘘の化身」としか思えなくなってきます。彼女と頻繁に歌を歌うシーンそのものが幻想であり「嘘」であり、常に「嘘」を追い求める者に魅惑的な雰囲気を漂わせて現れるように見えます。だからこそ、アーサーが「真実」を拒んで「嘘」に惹かれるとき、リ・クインゼルは熱心に接近してきますが、「嘘」を認めず「真実」に近づこうとした途端、彼女はあっさりと姿を消してしまいます。
突然すぎる裁判所爆破シーンも、社会や大衆の一面を示しているように感じました。裁判所の爆破は、まったく何の伏線もなく突然起こります。ただ、そのタイミングだけは、ちょうどアーサー・フレックが「ジョーカー」を否定し、自分自身の真実を告白する瞬間にドカンと爆発します。そして爆破された裁判所の外では、アーサー・フレックのジョーカーのコスプレをしたファンが、本物のアーサーを連れて脱出します。この場面に対して私は、「社会や大衆は不都合な真実よりも綺麗に包装された嘘を好む」ということを示しているのだと感じました。ジョーカーのコスプレをしたファンも結局は本物のジョーカーではなく、ジョーカーを模倣した「偽物」、つまり「嘘」の一部です。「真実」を語った瞬間、「魅力的な嘘」を望む大衆が「真実を裁く場所である裁判所」を爆破し、「偽物で嘘に満ちた」ファンが「真実のアーサー」を永遠の「嘘の道」へと連れて行こうとしましたが、最終的には失敗しました。
問題は、すでにアーサーが蒔いた罪と悪の種が、あまりにも早く、そして強固に広がってしまったことを、映画の終盤で描いているように感じた点です。
それを象徴するのが、アーサーを殺害した精神病棟の囚人の姿でした。俳優のキャスティングや、アーサー・フレックを手にした刃物で刺殺した後、ジョーカーのように笑いながら自分の口元を裂くシーンがアーサーの死とともに描かれるのですが、個人的にはこの演出に非常に驚かされました。 その理由は、まさにクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』に登場するジョーカーと酷似していたからです。
あの特徴的な笑い声や、『ダークナイト』版ジョーカーだけが持っている口が裂けた傷跡の設定などから、アーサー・フレックの“嘘”のジョーカーが死んだことで、私たちがよく知る“本物”のジョーカーが誕生したかのような印象を強く受けました。
正直、映画を観ている間ずっと「もう歌うのやめてくれ…」とイライラしていた気持ちが、最後のこのシーンで、「3作目さえちゃんと作ってくれれば、2作目のすべてを許せるかも…」と変わった瞬間でした。
アーサーが真実を否定せず、「嘘」と戦おうとしても、リ・クインゼルと過ごした関係のように、罪や悪はあまりにも簡単に、そして早く“真実”のように広がって、根を下ろしてしまったように見えました。
さらに、アーサーの死によって完成された“本物のジョーカー”の演出や、去っていくリ・クインゼルの姿などは、まるでキリスト教の新約聖書に登場するイエスの最後の物語を、逆さまに捉えたようにも感じました。
聖書では、イエスが死ぬことで人々の罪が許されますが、ここでは、真実を否定し“嘘”ばかり追いかけたアーサーが死ぬことで、全人類にジョーカーという罪と悪が広がるという結果を描いていたように見えました。
マリアを象徴する存在ともいえるリ・クインゼルも、最後までイエスに寄り添ったマリアとは異なり、あっさりとアーサーの元を去っていく姿が、その逆転構図をより強調しているようでした。
ただ、そんなことを感じたからこそ、演出的な面では惜しいなと思う部分もたくさんありました。
正直、アーサーが刑務所の中であれ外であれ、妄想の中であれ歌うたびに、すでにリアリティは崩れていたので、いっそのこと思い切ってインド映画みたいなミュージカルにしてしまっても良かったんじゃないかなと思いました。
むしろ、「嘘」について語るつもりだったのであれば、徹底的に「嘘」の演出を突き詰めた方が映画としてもより引き込まれたかもしれません。たとえば、チェアショットを食らったハーヴィー・デントや頭を割られた判事が血まみれのままアーサーやリ・クインゼルと一緒に狂気のダンスを踊るような展開があったら、逆にもっと没入できたかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=y1xi57fR9K4&ab_channel=Lament
他にも、ゲイリーの証言を聞いたあとアーサーが改心したという解釈が正しいとは思うんですが、問題はそのシーンの直後でもアーサーが普通にジョーカーの演技を続けていたことなんです。
そして刑務所に戻って、ボコボコに殴られて、唯一親しくしていた(たぶん)同房の囚人(または精神異常者)が目の前で殺され、そのすぐ後のシーンで「実はジョーカーなんていませんでした…」と告白する流れになっていて… これって、ゲイリーの言葉で改心したのか、それとも“暴力は最大の薬”だったのか、どちらにもとれるような誤解を招く演出に感じられました。
このように、映画の中では「嘘」について語る演出がいくつかあったように見えますし、それを監督自身やマーケティングを含めた外側でも表現しようとしたんじゃないかという気もします。
ですが、何はともあれ、3作目が作られて、それを実際に観てみないことには、この2作目が許されるかどうかも分からない――
というのが、私の最終的な結論でした。