「君たちはどう生きるか」 -あなた(宮崎駿)の感情を描いたアニメーション-
https://www.youtube.com/watch?v=UIabnyxTVpc
上映開始当時、謎に包まれた話題作。多くのユーチューバーやブロガーの方々が解釈や批評を投稿していたので、一つ一つ参考にする必要がありました。やはり、私が考えたことと重なる部分が多く、とても共感できる評価や解釈を書かれた方が多くいました。そこで私は、一般的に広く知られている作品内のメタファー(*簡単に言えば、作中のキャラクターたちが実際に意味するもの)に関する解釈よりも、作品そのものについて私なりの解釈を投稿してみようと思います。
まず、日本でもそうでしたし、世界中でも話題になったこの作品、『君たちはどう生きるか』(以下、略して『君たち』と呼びます)。話題になった中心には「作品が難しい」「難解だ」「絵は美しく、まさにジブリだが、何か記憶に残るシーンがない」といった意見があります。私も観ながら「いや、この展開を宮崎駿さんがやるのか?なぜ?」と最初に見たときは戸惑いましたが、この部分から掘り下げていこうと思います。
ほとんどの方がご存じの通り、この『君たち』はジブリの作品の中でも最も特異な作品であり、ジブリの(ある意味で)アルファとオメガ的存在となった宮崎駿監督の伝記とも言える作品です。監督が生きてきた中で経験した出来事をアニメーションで表現し、主人公のマヒトが宮崎監督本人、サブ主人公のサギが鈴木敏夫さんに例えられます。さらに、宮崎監督が考える戦争の惨状や、その戦争のために幼少期を無事に過ごした自分の矛盾などを表現したと、多くの評論家が語っています。しかし私は、この作品自体は単に宮崎監督本人の経験を比喩として表現したものではなく、宮崎監督の「感情」を「抽象画」のようにそのまま描き出したものではないかと考えています。
現在、日本では著作権が切れているディズニーの『ファンタジア(1940年)』の冒頭を飾るバッハの『トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565』をアニメーションで表現したものと似た構成だと考えています。つまり、音楽そのものをリズムやオーケストラの姿、音楽を聞きながら思い浮かべる色、イメージ、匂い、感情などをそのままアニメーション化したものではないかと思います。様々な感情を絵で表現すると仮定した場合、それに何らかの大衆的なパターンはあるとしても、「決まったもの」は全くありません。したがって『君たち』のストーリーラインやアニメーションの演出などは、まさに監督の時間に応じた感情を、バッハのトッカータとフーガをアニメーション化したように、思い浮かんだイメージそのままに描いたものではないかと思います。
なぜこの仮説が出てくるかというと、宮崎監督自身が試写会で「自分でもこの作品についてよくわからない」と答えたからです。通常、アニメーションを作ると言えば、一つのアイデアから企画に発展し、ストーリーの簡単な起承転結を考え、それがなぜそのように進行するのかについて、多くの意見交換や思考の末に作られます。しかし監督自身が理解できない?いやもちろん、作品を見た後で「ファンや視聴者の反応が理解できない」といった発言は当然あるでしょうが、自分自身の創作物が理解できない?その理由は、まさに自分の感情世界を表現することに集中し、合理的なストーリーボードや大衆的なアニメーションの構成を極力抑えたからです。実際、心理学者や脳科学者たちが述べるように、「果たして自分が持っているこの感情は本当に存在する感情なのだろうか?」という論文が数多く出ているように、自分の無意識の感情世界をそのまま絵に描き、監督自身も理解できないという発言が出るのです。
その仮説に達したとき、私はなぜこの『君たち』の日本でのマーケティングがあのような形になったのかを理解できました。この話をする前に、今回は宮崎監督ではなく、サギ役の鈴木プロデューサーの話を先にするべきです。私が以前、ジブリスタジオの展示会に行った際、そこでは当時の宮崎監督と鈴木プロデューサーとの連絡事項を記した手紙なども展示されていました。そこで非常に驚いたのは、意外にも宮崎監督と鈴木プロデューサーがかなり激しくぶつかり、意見の対立が非常に多かったことです。特に、私たちがよく知っている『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などの演出やストーリーラインが決定的な役割を果たしたのは、鈴木プロデューサーが宮崎監督を説得して出てきた部分も多く、むしろ鈴木プロデューサーによって生まれた演出が大きな印象を残した例も数多くありました。
それでも鈴木プロデューサーは宮崎監督を徹底的に「ブランド化」しました。今では大きな批判を抱えている制作委員会方式も鈴木プロデューサーが考案したものであり、韓国で賛否両論を巻き起こす芸能人による声優起用も鈴木プロデューサーの主な作品の一つです。「アニメーション制作費と同じくらいマーケティング費を注ぎ込めば、人々は一度は映画館に足を運ぶだろう」という持論を証明した人物でもあります。しかし、その彼が『君たち』に限ってマーケティング「ゼロ」を宣言する?最近、ゼロカロリー商品が流行っているから真似しているのでしょうか?
実際、鈴木プロデューサーは『君たち』の制作に関して大反対していたそうです。それでも最終的には宮崎監督の強い意志に屈服し、制作に参加することになりましたが、鈴木プロデューサーもこの作品を見ながら非常に困惑したでしょう。「これはどうマーケティングしても、観客が映画館で見て賛否を言うだろう!」。そんな中、スタジオジブリの予算はどんどん枯渇し、費用は急速に増加していく中で、果たして制作費に見合うマーケティングが可能でしょうか?それともマーケティングのためにクオリティを犠牲にするべきでしょうか?お金のためにアニメのクオリティを下げる?もしそうなら、作中のサギは嘴に矢が刺さるのではなく、本体の頭にヘッドショットがしっかりと刺さっていたことでしょう。
そんな中で、作品自体が通常のアニメーションの構成や演出とは異なり、宮崎監督自身の感情をそのままアニメーション化した、アニメーションの抽象画ともいえる作品が誕生したため、逆転の発想ともいえる戦略を取ったのだと思います。そしてそれは、むしろ「宮崎駿だからこそ可能なマーケティングゼロ!」でした。もちろん、ゼロカロリー飲料にも1~5カロリー含まれていても許されるように、ポスターやハウルの写真など、極端に抑えたマーケティングもありましたが(笑)
むしろそのマーケティングのおかげで、この作品は公開前からアニメファンによって「自然とマーケティングが行われる」という非常に効率的な現象が発生しました。何の経験もない新人アニメーション監督がこのようなマーケティングを行ったら、果たして観に来る人がいるでしょうか?まさに鈴木プロデューサーの数十年にわたる築き上げがあってこそ可能なマーケティングだったのです!マーケティングの神であったからこそ、ゼロマーケティングも可能だった(自ら創造したものを自ら破壊する権利がある神話的な原理)、アニメーションそのものよりも外的な部分に私はますます感嘆しました。
そのため、まさにこの『君たち』の構成とぴったり合った作品だと思いました。いずれにせよ、作品を見る前にマーケティングが行われると、観客は無意識のうちにそのマーケティングが頭に入り、「象を考えるな」と言われると象を思い浮かべるように、どんなに作品を見ても、必ず先行マーケティングの影響を一部でも受けるしかありません。しかし、そのようなマーケティングが一切なければ、宮崎監督の感情をどんな色眼鏡もなしに純粋に受け入れることができます。もちろん、日本以外の国の法律や文化の違いによって、仕方なく英語圏や韓国などの海外ではPVなどのマーケティングが行われました。もちろん、世界同時公開ではないため、すでに日本からの評論やニュースが広がっており、他の国でもマーケティングを行わないことに大きな意味はないかもしれませんが、この作品がこうであるために、ゼロマーケティングも「作品の延長線上」にあると考えたいです。このマーケティングも作品の一部であり、宮崎監督とスタジオジブリ、アニメーション、そして鈴木プロデューサーという繋がりを作品の外で語る非常に特別で、二度と現れることのない構成と演出だと思います。
だからこそ、作中で主人公マヒトとサギが互いに食い尽くそうとしつつも、最終的には「友達」になるのです。実際の宮崎監督と鈴木プロデューサーもそうであったように。文量の関係で今日の投稿はここで締めくくりますが、機会があれば『君たち』の第2部として続けたいと思っています。
でもいくら考えても青サギのあいつの暴言はさすがに越えてはいけないラインだろ?
では、この辺で投稿を終わります。